インフルエンザは『悪い風邪』!?古代ギリシャの医師ヒポクラテスもお手上げ

インフルエンザスペイン風邪

幾重にも連なるなだらかな丘陵地に抱かれた華の都を、突如として『悪い風邪』が急襲したのは、イタリアにルネサンス期にあたる14世紀のことです。

雨が多く蒸し暑い炎夏、冷たく湿った厳冬。

温暖湿潤気候と地中海性気候がせめぎ合う特異な気候条件や寒暖差−−。

それらが災いしたのか、フィレンツェ市内を流れるアルノ河畔界隈は悲惨な状況であったそうです。

今回はインフルエンザの名前の由来、医学の父ピポクラテス、インフルエンザの流行の歴史について紹介します。

インフルエンザの名前の由来

インフルエンザスペイン風邪

16世紀のイタリアの占星家たちは、悪い風邪は星座の邪悪な運勢がもたらした厄災であると占い、『インフルエンツァ(影響)』と名づけました。

その後、この呼称は『influenza(インフルエンザ)』と英語化し、冬の大将軍が吹き荒れるやいなや瞬く間に伝染し、世界中を震え上がらせてきました。

 

古代ギリシャ医学の父ヒポクラテスについて

インフルエンザスペイン風邪

出典:http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22214001882.jpg

紀元前5世紀に活躍した古代ギリシアの医者、ヒポクラテスの時代も、咳と高熱が人びとを苦しめ続けていたようです。

医学の父、医聖、疫学の祖と称されるヒポクラテスは、エーゲ海を望むイオニア地方南端のコス島の生まれです。

医学を修めるためにギリシア各地を遍歴し、その功績は『ヒポクラテス全集』に集約されています。

ヒポクラテスは、医学を原始的な迷信や呪術から解放し、臨床と観察を重視する経験科学に発展させました。

そして、病気の原因について4種類の体液が変調した時に発生する『四体液説』を唱え、病気そのものを『急性・慢性・風土病・伝染病』に4分類に分けました。

自然環境や政治環境が健康に及ぼす影響にも警鐘を鳴らし、ヒポクラテスの誓いでは医師が備えるべき高い倫理性や客観性を熱心に語りかけています。

 

インフルエンザについて最も古い記録

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ヨーロッパで最も古い記載は『紀元前412年のヒポクラテスとリヴィによるもの』とされています。

11世紀には明らかにインフルエンザの流行を推測させる記録が残っており、16世紀にはすでにインフルエンザ(イタリア語の「星の影響」が語源)という名で呼ばれていたようです。

わが国でも古くは平安時代にインフルエンザの流行をうかがわせる記載があり、江戸時代には『はやり風邪』と呼ばれ、お駒風・琉球風などと流行によって世相を反映したさまざまな名がつけられました。

【20世紀のパンデミック】スペイン風邪について

インフルエンザスペイン風邪

発生と流行の広がり

 

第一次世界大戦の最中、3波にわたり全世界を襲いました。

第1波は1918年3月に米国北西部で出現。米軍とともに欧州に渡り、西部戦線の両軍兵士に多数の死者を出して戦争の終結を早めたといわれています。

スペインの王室の罹患が大々的に報じられたことからスペインかぜと呼ばれるようになりました。

第2波は同年秋、世界的に同時発生してさらに重い症状を伴うものになりました。

第3波は1919年春に起こり、同年秋に終息に向かいました。

 

ウイルスのタイプ

 

ウイルスのタイプは『A型』でした。

しかし、当時はウイルスが原因とは知られておらず、後の血清疫学調査や剖検肺や凍土中の患者肺からのRNAの解析で判明しました。

 

罹患者・死亡者

 

この間、『世界の人口の約50%が感染し、25%が発症した』と見積もられています。

死亡者は2,000万人以上にのぼり、疫病史上有数の大被害となりました。

米国では南北戦争の死亡者や第二次世界大戦の死亡者を大きく上回り、パンデミックの脅威をまざまざと見せつけました。

人口の多くがその免疫を獲得するにつれて死亡率は低下しましたが、1957年にアジアかぜが現れるまで流行し続けました。(H1N1型)

日本では1918年(大正7年)の11月に全国的な流行となりました。

1921年7月までの3年間で、人口の約半数(2,380万人)が罹患し、38万8,727人が死亡したと報告されています。

 

その他の特徴

 

20代から30代の青壮年者に死亡率が高かった原因は不明で、謎として残っています。

通常は小児や高齢者の死亡率が高いものの、『スペインかぜで死因の第一位は二次的細菌性肺炎』でした。

このとき、初めて剖検肺中に細菌が証明されないことから、ウイルス肺炎が疑われるようになりました。

 

【パンデミック】アジア風邪について

インフルエンザスペイン風邪

発生と流行の広がり

 

1957年4月に香港で始まり、東南アジア各地、日本、オーストラリア、さらに米国、ヨーロッパなど世界各地へ広がりました。

発端は中国南西部と考えられています。

 

ウイルスのタイプ

 

ウイルスのタイプは『AH2N2型』でした。ほとんどの人は免疫がありませんでしたが、50歳以上の人に抗体を有していたため、50年以上前に類似の流行があったと推測されています。

 

死亡者

 

スペインかぜの約1/10でしたが、抗生物質時代に入っての重大な流行でした。

日本では5月から始まり、300万人が罹患。死者5,700人。

死亡者の肺炎中黄色ブドウ球菌の二次感染が注目されました。

この時期、市中肺炎の第一位の起炎菌は『黄色ブドウ球菌』でした。

【パンデミック】香港かぜについて

インフルエンザスペイン風邪

発生と流行の広がり

 

1968年6月に香港で爆発的に流行。

中国に源を発すると考えられています。

8月には台湾、シンガポールその他の東南アジアへ。9月に日本、オーストラリア、12月には米国でピークを迎えました。

 

ウイルスのタイプ

 

ウイルスのタイプは『H3N2型』でした。

新型ではあったが、血清の解析により1890年代に類似の型の流行があったと示唆されました。

ヘマグルチニンだけの変化でした。

 

罹患者・死亡者

 

香港では6週間で50万人が罹患。全世界で56,000人以上の死者を出しました。

 

【パンデミック】ソ連かぜについて

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発生と流行の広がり

 

1977年5月に中国北西部から始まり、12月までにシベリア、西部ロシアへ。
12月に日本、翌年6月までに米国、ヨーロッパ、オセアニア、南米まで流行が拡大しました。

 

ウイルスのタイプ

 

ウイルスのタイプは『H1N1型』でした。

1950年代に流行したイタリアかぜと遺伝子的に同一で、23歳以上は抗体を有していました。

 

罹患者・死亡者

 

そのため、流行当初は小児と10代の若年層に限られていましたが、連続変異が起きるにつれて他の年齢層にも広がりました。

 

ヒポクラテスもインフルエンザは厄介だった

インフルエンザは『悪い風邪』古代ギリシャの医師ヒポクラテスもお手上げ!?

紀元前412年、ヒポクラテスはインフルエンザと思われる疫病の大発生を克明に記録しています。

人生は短く、術の道は長い。機会は逸し易く、試みは失敗することが多く、判断は難しい

という箴言も遺したが、その鋭い洞察力も深い叡智も、『悪い風邪』には太刀打ちできなかったのでしょうか?

前述したように、日本の記録をひも解けば、平安時代の『増鏡』に

しはぶき(咳)やみはやりて人多く失せたまふ

とあり、江戸時代の古文書に『お駒風』や『谷風』がはやったとある。

1890年にインフルエンザが世界的に猛威を奮ってからは、日本では『流行性感冒(流感)』と呼ぶようになった。

 

1918年に巻き起こった『スペイン風邪』についても同様ですね。

その恐るべき余波は、全世界で罹患者6億人、死者2000~4000万人、日本で罹患者2300万人、死者38万人を軽々と呑み込みました。

当時の日本の新聞を見ると、流感熱に浮かされたような大見出しが躍っているんです。

流感の恐怖時代襲来す! 一刻も早く予防注射をせよ!

まとめ

インフルエンザスペイン風邪

今回はインフルエンザの名前の由来、医学の父ピポクラテス、インフルエンザの流行の歴史について紹介しました。

インフルエンザの名前の由来は『インフルエンツァ(影響)を英語化した』のが始まりだったのですね。

インフルエンザの流行の歴史についても紹介しました。

インフルエンザの最も古い記載はヨーロッパの紀元前412年のヒポクラテスとリヴィによるものと言われています。

昔から悪い風邪として恐れられていたインフルエンザ。しっかり予防、対策をして寒い冬を乗り越えましょう。

 

インフルエンザスペイン風邪

1 個のコメント

  • えたーなる より:

    ヒポクラテスという学者の名前は聞いたことがありましたが、医者だったのですね。いつの時代も流行する病気には注意がいりますね。

  • えたーなる へ返信する コメントをキャンセル

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